その24:「第三の波」と「IT」(その1)

「第三の波」と「IT」(その1)

 今回のテーマは「第三の波」と「IT」です。  
 これから先、「IT」はどのように進化していくのでしょうか。また進化した「IT」によって社会はどう変化していくのでしょうか? すでにご説明したように「IT」は「ムーアの法則」に代表されるように指数関数的に性能がアップしていくため、10年もすれば以前とは全く違った形になったり、違ったアプリケーションが現れたりします。したがって10年後の「IT」を予測することはとても難しく、ITの影響を受け、社会がどのように変化していくか予想するのは難しいのです。
 しかし、今から約40年も前に、「IT」が社会の中心的な存在になり、「IT社会」の到来を大胆に予想したベストセラーがあります。その著作は1980年にアルビン・トフラー(図1)により出版された「第三の波」です。当時話題になったので読まれた方も多いのではないかと思います。
 今回はこの本に記載された内容を、現在の状況に照らし合わせて検証していきたいと思います。そのことが、現在「IT」の影響によって起こっている社会的変化を理解し、将来起こりえることを予測するために役立つと考えるからです。

(1)「第二の波」に乗り、絶頂期を迎えた日本:
 「第三の波」についてはすでに本ブログ その16「ITが社会・生活に与える影響(その2)」(4)ライフスタイルで簡単に紹介しました。まだ、その16をお読みで無い方は、大変お手数ですが、是非本ブログ その16を読んでから今回のブログをお読みいただきたいと考えます。当然、もう「第三の波」をご存じの方は不要です。
 トフラーは著書の中で、「第三の波」を動かすバックボーン、すなわち土台や推進役、エンジンになる産業として4つを挙げ、その内の一つに「コンピューター(「IT」や「情報産業」と同義と考えられる)」を入れています。今回と次回の二回で「コンピューター(「IT」や「情報産業」)」が「第三の波」の推進役としてどのような影響を及ぼしているのかを検証していきたいと思います。


図1:アルビン・トフラー
Yahoo!ニュースより
https://news.yahoo.co.jp/byline/kandatoshiaki/20160702-00059534

 まず、「第三の波」で語られている「第二の波」の時代を振り返りたいと思います。「第二の波」の時代は、17世紀松ごろからはじまった産業革命を起点としてやってきたとされています。18世紀ごろには蒸気機関が発明され、エネルギー源としては「石炭」が主役となり、そこから生まれる強大な動力は工業化社会の原動力となり、大量生産を可能にしました。その後、エネルギー源は石油、ガスなどに移り変わりましたが、いずれも化石燃料であり、有限な地球資産の食いつぶしが始まったのです。
 「第二の波」で最初に発達したのが、英国や欧米を中心とした石炭を動力源とした繊維産業、鉄道事業などです。船舶にも蒸気機関が持ち込まれ、列強国は海洋を支配し、植民地支配も増えていきました。交通機関の発展は、大量の製品を広い地域に運ぶことを可能にし、「流通」が生まれました。大工場で作られた大量の工業製品を、「流通」を使って大衆へ販売する「市場」が登場し、「市場主義」が「第二の波」の社会を支配しました。この「第二の波」の前半にあたる18世紀から19世紀の日本は、徳川幕府による鎖国中であり、まだこの「第二の波」も押し寄せておらず、農耕が主体の「第一の波」の社会でした。それが、嘉永6 (1853) 年にペリーが黒船で浦賀に来航し(図2)、翌年には日米通商が開始されて日本の鎖国時代は終りました。黒船は蒸気船で「第二の波」の技術で作られたものであり、日本の人々を驚かせ、この時はじめて日本は「第二の波」の影響を受けることになりました。


図2:黒船来航
NHKオンデマンド「歴史探偵」ホームページより
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2020106384SA000/

 この時点では、日本は「第二の波」には完全に乗り遅れていましたが、1867年には大政奉還により徳川幕府が終焉し、翌年には明治元年を迎え、明治維新という近代化革命を経て急速にその波に乗り移っていきました。この頃の日本のダイナミズムには目を見張るこのがあります。新たな日本の運営を任された維新政府が行ったことは、まず欧米列強国に追いつくことでした。1871年からは岩倉使節団を送り出し、諸外国との差を目の当たりにし、その見分を活かし、次々と国内の改革を行っていきました。
 1871年には前島密が郵便制度を立ち上げ、1872年には新橋と横浜間の鉄道を開通させるなど、急速に第二の波の技術を取り入れていきました。そして産業面では富国強兵・殖産興業のもと、西洋式の工業技術が導入され、1872年には富岡製糸場(図3)が開業し、日本も「第二の波」の工業化社会へと歩みはじめたのです。日本がこれほど早く「第二の波」の社会に変われたことは、近代化を目指すアジア諸国において成功例として驚異の目で見られました。日本が成功した理由として、教育制度が整っていたこと、江戸時代からの「お上意識」が強く中央集権が進みやすかったこと、周りを海に囲まれた単一民族国家であり、言語もほとんど統一されており国内のコミュニケーションがとり易かったことなどが挙げられています。


図3:富製糸工場
NHK for Schoolホームページより
https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005310125_00000

 第二次世界大戦後から1980年代まで、日本は「第二の波」の社会で絶頂期を迎えることになりました。「第二の波」の社会では、①規格化、②分業化、③同時化、④集中化、⑤最大化、⑥中央集権化という6つの原則が守られてきたことを、本ブログ その16「ITが社会・生活に与える影響(その2)」にてすでに説明しました。そして、日本の社会や国民は、このいずれの条件にも高度にマッチしていました。
 まず一つ目の「規格化」ですが、それは画一化されたもの、同じものを大量に作るということです。日本人はあまり個性を主張しない傾向があります。他人と同じことの方が安心できるという理由で、他人と同じことをあまり嫌がりません。服装もユニフォームを好み、学生は「学生服」を、社会人になっても会社から支給されるユニフォームを身につけています。学校教育も特に義務教育では指導要綱に従い、どの学校でも同じ規格化された内容が教えられるようになりました。そして、工場の作業で正確にモノを作ることができるように、読み書きなどのコミュニケーション能力や、規律ある生活をおくるためルールを守る精神など、個性を伸ばすというよりも画一的だが常識的でまじめな人間を育てることの方に教育の重点が置かれていたと思います。日本人の通勤風景で、駅のプラットフォームに規律良く並び、混雑した電車に整然と乗り降りする姿を見ると、外国人は皆びっくりします。明治義務教育以来の教育は、規格化という面で優れていました。さらに人生でさえ、父親は大企業に勤め、母は専業主婦として働き、二人の子供を育て、終身雇用制で定年まで勤めあげ、退職後は年金生活を送るというパターンに規格化されていきました。
 二つ目の「分業化」ですが、一つのモノを作るのに一人ですべてをやるのではなく、できるだけ製造プロセスを細かく分け(分業化し)、単純にすることでそのスピードや精度を上げることにより、優れた製品を速く(大量に)作ることを可能にするものです。したがって、一人の作業自体は単純な反復作業になり、非人間的な作業になります。しかしこのような過酷な作業形態も、日本の義務教育で育てられた画一的だが常識的でまじめな若者が良質な労働者となり、この作業を請け負うこととなりました。
 三つ目の「同期化」は時間を合わせることです。「分業化」によって細分化された作業プロセスをスムーズにつないでいくためには、次のプロセスへ渡すタイミングが合っていないといけません。そのために「同期化」が必要になるのです。工場の生産ラインのみならず、「第二の波」の社会では多くの人が同じタイミングで仕事をすることにより、作業効率を上げることを要求されます。会社へ出社するタイミングも皆同じ時刻に合わせます。会議は遅れないように、決められた時間に始めます。会議に遅れることは許されません。こうしていたる所で同期化が図られていくのが第二の波の社会です。日本は国土が狭いため、幸い標準時刻は一つだけであり、それに合わせて通勤する時間帯は日本国中でほとんど同時になります。そして通勤電車は猛烈なラッシュに見舞われています。そして、ここでも学校で時間厳守の精神を教育していることがとても役に立っていたのです。
 四つ目の「集中化」は、労働力や会社機能を集中させることです。日本はもともと平野部分が狭く、都市部に人口が集中しやすい国土の構造を持っています。現在も大都市への人口流入は続いているほどです。そして大企業は都市部に本社や支店を構え、労働力もそこへ吸収されていきました。都市への集中化は諸外国でも進んでいますが、人口密度が高い日本は特に集中化にはもってこいの状況を備えていました。
 五つ目の「極大化」は、企業の巨大化などですが、事業範囲を広げて電池から発電所まで作るようなフル・ラインアップの企業や複合企業(コングロマリット)となることです。戦後の大企業は旺盛な「モノ」に対する需要をバックに、企業の成長つまり売り上げ拡大を目指し、コングロマリット化を繰り返していきました。この方法は1980年代までは有効な企業戦略であり、企業も創業以来最高額の売り上げを更新していきました。
 六つ目の「中央集権化」は、主に政治システムに関わってきますが、日本特有の「お上意識」が政治家や官僚に対する階級意識がこれを後押しする形になりました。中央集権化に対し大きな異を唱えることもなく、受け入れられやすい土壌があったのです。
 このように、日本は第二の波の6原則をほぼ完ぺきに満たしていたため、「第二の波」を受け入れやすく、その波に乗ることが簡単にできました。そこへ戦後の復興需要という特需や、日本がこの時期に人口に対する労働力が豊富な状態となる人口ボーナス期を迎えたため、鉄鋼や自動車、電機・エレクトロニクス製品、化学製品などの製造業を中心に絶頂期を迎えることになりました、しかし、これは企業戦略が優れていたという要因よりも、「第二の波」と国の状況、市場の状況などの波が奇跡的に互いに波の力を高め合うタイミングで一致し、大きなうねりになり、この波に上手く乗っかれたのが大きかったと思います。エズラ・ヴォーゲルによる「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という著書が発行されたのもこの時期でした(図4)。



図4:エズラ・ヴォーゲル
DIAMOND on lineより
https://diamond.jp/articles/-/258032

 以上、今回は「IT」が「第三の波」の推進役としてどのような影響を及ぼしているのかを検証する準備として、「第三の波」で語られている「第二の波」の時代を振り返りました。「IT」が全面的に登場する前の時代の話です。日本はこの時代に絶頂期を迎えました。そして、いよいよこの後「第三の波」がやってきます。「第三の波」は今まさにその威力を見せています。その「第三の波」に「IT」がどのような影響を及ぼしているのか、また及ぼしつつあるのか、次回のブログで検証していきたいと思います。40年前のアルビン・トフラーの予測が、果たしてどれだけ当たっているのか、興味は尽きません。

 

 

2021年10月17日